地域デザインをめぐって vol.03 “卒業設計振り返り”

入澤 菜々葉 + 小林珠枝 + 志村裕己

2024年度、最初のゼミが4/8(月)に行われました。
大学院に進学した修士1年に3人に、昨年度1年間の卒業論文/卒業設計を振り返っていただきました。

 

入澤 菜々葉
(論文)「気仙沼市八日町の商店街における場づくり 〜東日本大震災後の流入者の活動と住民からの受容に着目して〜」
(設計)「街道沿いにて、縁を折り込む」

小林 珠枝
(設計)「斜面をつづる こどもの帯 〜見沼の斜面林におけるこどもの遊び環境の再構築〜」

志村 裕己(大野研究室所属)
(設計)「偏差的日常 -ズレが育むナナメの関係-」

<トークテーマ>

・対象となるテーマや地域の決め方/決まり方
・一番大変だったことは何か?
・取り組んできて、到達したこととは何か?

<対象となるテーマや地域の決め方/決まり方>


志村:建物に対して興味を持った始まりとなった、自分が住んでいた団地の再開発計画をやった。卒業設計としてやりたい、と思っていた。だから地域が最初に決まったといえる。テーマをどうするかとなって、自身の感じている団地の魅力と、一般的に言われている特徴のずれがテーマとして扱えたら、と。集合住宅やマンションとは違うものがあると思った。生まれたときから再開発計画があって、会合などがよくあって、親も近所の人との議論していた。小学校のとき、計画案のパースをみて。ポジティブな意味で、緑が増えて、道がこうなってというワクワクを感じた。
ワクワク感じゃなくなったのは、中学のときにその案が否決されて、大学に入って仙台に来た時は興味が薄れていた、しかし家に戻ったときに違う案になっていることがわかった。

窪田:地域に対しての印象や考えは卒業設計をやって変わった?
志村:自分のまちは相対化しないで主観的に捉えていたが、調べてみて、郊外という意識が生じた、大規模施設が多いとか、調べてみてから他と比較して、事実を知った、という感じ。

小林:卒業設計を地元にしようと思った理由としては、大学で設計を学んできて、それを自分が育った環境、身体感覚に馴染みのあるところでやってみたいと思ったから。
敷地は決まっていたので、敷地でどういうことが起こっているのかという情報収集をひたすらやっていった。その中で自分なりの問いを、敷地を何度も歩くうちに、見つけていった。具体的には、この敷地で経験してきたときの記憶と現在の風景とのギャップに問題意識を感じた。地形とこどもが育つ環境というテーマに行き着いた。
私がこどもの頃に遊んでいた斜面林という環境があって、愛着のある場所だった。しかし近年の宅地開発でどんどん失われていることに気づいた。こどもが育つ環境として、そういう場所がなくなってしまうということに問題意識を感じた。現在の風景は、そういう宅地として均一化されてしまっている。
今、自分が住んでいる環境を知るということが重要だと思う。斜面林があって、それが失われている、ということに気づいていない、知らない人が多い。それが問題。地域における課題みたいなものを共有していく場所を作ることで、この場所がもつ空間的な価値をあらわせる。
みんな宅地化を見てはいるだろうけれど、問題とは思っていない。この地域のシンボルとして、地元の友達と話していても、そういう認識はない。一緒に遊んでいた子とは、なくなっちゃったね、という話はしても、そうでないと知らない人が多い。

入澤:論文と設計どちらもやった。気仙沼に決めたのは、成り行きと勢いもあったが、少し内陸の八日町に決めたのは、人通りがないながらも、天窓とかくるくるなどの新しい場所ができたことに惹かれた。
いつも手探り状態で1mm先も見通せていなかった。論文書くときは、衰退する地方都市で頑張る人々という状況が存在しているというイメージはあったが、それを常にひしひしと感じて、明らかにしないといけないと感じた。そういうことが起こっていることは、一般的な話として知ってはいても、住民が何を考えているのか、とか実際に成功していると思っているのか、とか聞いたり読んだりする機会がなかった。実際に話をしてみて、すごい頑張ってはいるけれど、この先どうなるかという不安とか自問自答している葛藤の中で、続けている。希望いっぱいで続けているわけではないことを強く感じだ。
設計としては、経済なども含めて、建築にできることは何かと考えた。町屋に形を与えて価値を付加する、ということしかできない、と考えた。町屋のままでは、町並みは守られても、うまく使われていない町屋が並んでいるだけの町並みは、昔からのものが残っているという点では良いが、何かできないかなと。
町屋は、前にミセ空間があって、後ろに住んで、という暮らしと商いが近くにある時代は理にかなっていたと思う。が、今は、それらが遠くにある時代になって、ミセ空間を持たないのだけれど、町屋をもう一回価値があるものとして考えられるように、減築とかリノベをした。「もう一回価値があるものとして考える」主体とは、自分が提案することによって、そこに住む人がそうなってくれると良いと思う。

<一番大変だったことは何か?>

小林:苦労したことは、卒業設計という一年間を通して、考えるに値する問いを見つけること。最初の方は、対象は地元に決まっていたので、社会問題とか客観的な問題点を挙げていくということからスタートしたが、それなら誰でもできる。自分にしかできない、どうせやるならオリジナリティが必要、自分と向きあって自分の中の問いを見つけていくという過程が、大変だった。
リサーチを進めていく中で、進めるほど建築というハードで出来ることがあまりないのではないのか、建築自体何の役に立つのかという自問自答を繰り返し、自分が何をしたかったのかを見失いかけた時期もあったが、10月末ぐらいに、マルアーキテクトさんに、複雑なものを単純化せずに、複雑なものをそのまま扱うことが大事という言葉をいただいた。それまで、リサーチしたものをベースに設計するスタイルだったが、自分の中の複雑なものをそのまま捉えるために、スケッチや模型のスタディを増やしていった。その中で、建築に縛られないデザインのあり方を模索するようになった、それが10月ぐらい。
表面的ではなく根源的な問いを見つけること。言葉や図にして単純化せずに。
スケッチは即日設計などでたくさん練習してきたこともあって、スタディに取り入れていった。実際にそれが達成できたかとは堂々とはいえないが、今までやってきた設計とは明らかに違うものができた気がしている。

窪田:どうしても頭の中で単純化してしまいがちな、あるいはスケッチをいかせない後輩が目の前にいるとしたらなんとアドバイスする?
小林:ものをつくるときの、直観というか、手を動かすということが大事だったなと思う。ひたすら手を動かすうちに、自分の中で納得のいくものに近いものが生まれたり、ということがあった。ひたすら手を動かすこと。

志村:複数の色んな要請や条件をとりいれながら作るところが大変だった。自分の対象とした条件の特徴でもあるが、住民からヒアリングをする中で、住民のお話されることは自分の経験を言語化することに止まっている、それを空間化しないといけない。その転換は実際に対応しているのか、そもそも何を取捨選択して対応させるべきなのか、というあたりが難しかった。
また、構造の耐震診断をした結果を盛り込まなければならない(のかはわからなかったが)と思っていて、大変だった。
さらに、卒業設計として建築としての新しさが求められた。
それら三つぐらいのものに引っ張られながらまとめた。
たとえば最初の空間化においては、リアルに住民に還元できるレベルの提案にしたかったが、そうすると、すでにやられているものや小さい操作になりがちで(ベンチをつくるとか)、建築としての新しさや魅力に乏しいと思った。新しさと構造と住民の意見という三つを組み合わせて、こういう答えの出し方になった。
住民の方にとりあえず何かやって、と言われたら、自転車置き場を再整備して、外よりも内側に集約して再整理する、とか。そういったことは盛り込んでいたが、説明するときの軸にはしていなかった。
提案がオーバーオールしている、という表現で五十嵐先生にも言われた、一番設計はやっているよね、とは言われたが、軸がわかりにくかったと

学内のときにはまとまっていなかったが、学外の説明ではコミュニケーションの触媒という軸ですっきりと表せた。

入澤:建築の提案だけでは操作できないことが多すぎて、何ができるのか悩んだ。えいっと形を一回作ったが、やったことに何の価値があるのだろう、住民が求めているのか、もう無理、と思った時期が大変だった。先輩方にも相談して、新しい角度からヒントももらった。現場での問題に直結する解決だけでなくて、自分の考えたいことも探求してみた。4年のはじめのときに公園とかコモンズ、空地に関心があったことともつながる。集まって空き地をどうやってもったら良いのか、など、その可能性を軸にして説明するようなものになったので、最後、そこに持って行けたのはよかった。
窪田:この提案はもう無理というのは、今までもあった?
入澤:リサーチといっても、自分が設計するためのリサーチという感じで、使えそうなところだけ深掘りする感じだったが、今回は住民や市役所の方の顔もわかるようになって、これでいいのかなと。
顔とか町並みも浮かんできて。一歩ひきの目でみたときに、自分の考えも追い求めることも大事。

<取り組んできて、到達したこととは何か?>

 

入澤:到達とまでは言えるかわからないが、自分に都合の良い部分だけをみるのではなく、不都合も含めて地域と向き合うということはよかった。
論文と設計の両方に向き合うことで、設計の前段階のリサーチではなく、論文としてのリサーチになった。大変だったけれど、それを成し遂げられたということは大きかった。
志村:自分も同じところがあり、近くで対象となる人を思い浮かべて、あるところは意図的に無視したりもしたが、ここまでやったのは卒業設計がはじめてだった。

小林:私も同じだが、一つのテーマで長い時間を考えると一筋縄ではいかないことがたくさんあって、自分の提案でできる範囲を、こぼれ落ちてしまうものもあるかもしれないが、一年間を通して考えられたのかなと思う。

植田:三人の言葉を聞いていると、卒業設計をはじめる前は建築はもっとなんでもできる、建築の力を強く思っていたが、リアリティに向き合ったら限界が見えてきたという感じなのかな。
卒業設計を始める前に、建築でできると思っていたというあたりは、どんなことを思っていた?
入澤:今までの設計課題は用途などが決まっていて、そこに対して建築の面白さを追い求めるという方法だったので、その前段階まで含めて考えて、詰まっちゃったというのがあったかな。
小林:これまでの設計の仕方では、課題が決まっていた。建築が何ができるかは課題の中で考えている状態だった。卒業設計は課題自体から考えていったという点で今までとは違うアプローチだった。その課題に対して建築のできる限界を感じた。

植田:これから修士2年間の中で、設計でも論文でも自分ができることの限界はつきまとうものなので、地域が抱えている課題は大きすぎるものもあって、そこに気づいているというのは良いなと思いました。

小林:一つは、今までリサーチして表面的な社会問題を建築で解決という方法が多かったが、一年間一つのテーマを粘り強く考えていく過程で、自分の中にある根源的な問いを認識できて、建築という媒体を通して、この地域に何かポテンシャルを示せたと思う。
入澤:小林さんはいつも一人だけぶっちぎりのハイスピードで設計課題を進めていたが、卒業設計のときは病んでいるというか、明らかにつらそうだったのはびっくり。一緒にやっている身で、みんなつらいね、と思っていた。
小林:最終的に成果物として形になって、色んな人の協力もあって。達成感はあるし、嬉しかったし。
窪田:また同じような状況に身を置くことになるが、大変さをどう引き受けるかは、職能としても重要。たくさん血を出している人に平気で対処できる医者のように、どれだけの問題に対処できるかはデザイナーとしての力能でもある

志村:自分が建築を学んできて、建築に対する態度が、卒業設計を通じてなんとなく見えた。授業の中で、知識を得たことはいっぱいあるが、社会に対して自分の主張や態度を持つことが重要。ただ他の人の知見を引用するだけでなくて、自分の主張や態度を作っていくという経験として、一つできたという感じ。
卒業設計というのはなんだろうというのはそもそもわかっていなかった。やりながら、エスキスとかゼミとか、そういうことだったのか、ということに気づいた。何をこれでやりたいのか、と指摘されたときに、この案がもっている可能性を伝えた方が良い、と。設計はツールであって大事なのはそれを通じて何を伝えたいかなのかと。

植田:知識を超えて、生産するというか、何かをもとに考えたり、自分を作りあげていったりというのは、自分が学部四年生のときには考えていなかったな、と。この学年は、すごいしっかり考えているなと尊敬する。
一番大事だなと思ったのは、卒業設計は、評価が欲しいというところがあるから、そのためにやることと、リアリティに向き合っていくとそうじゃないみたいなギャップがある中で、そのせめぎ合いの中で、提案をまとめていくのは大事。
評価を受けることも大事だし、嬉しいことではあるが、今いるところで認められなくてもそうでないところや後から認められることもある。目の前にいる、この人たちに認められようとするよりも、そこにしばられずに、本当に自由に、修士の2年間は自分の関心を深められる期間だから、やりたいことをやる2年間にしてほしい。

窪田:私もかくありたい。

以上

写真. 卒業おめでとうございます…!